カテゴリー「田中正造先生への旅」の記事

2007.08.26

田中正造先生への旅(5)

出張疲れも残っていたが、8月中に「切り良く」行っておきたいという気持ちの方が強く、出かけてきた。残すところ、あと2箇所。

前回見つけることの出来なかった北川辺町(埼玉県)の「田中霊場」は後回しにして、明和町(群馬県)にある「川俣事件」の記念碑へ。明和町は館林市の南隣。上武道路~国道354号で大泉町に入り、南東方面へ車を向け、邑楽町を突っ切ると明和町。そしてちょうど国道122号にぶつかる交差点が「川俣」だった。122号を横に入ってすぐのところに事件の碑はあった。

Kawamata1_2明治33年、足尾銅山の鉱毒被害民約3000人が東京へ直接請願に出ようとした(=『大押出』といった。これが4回目だったそうだ)ところ、佐貫村川俣(現明和町)において警官隊に阻止され、被害民68名が検挙された。これが川俣事件である。予審終結時点で51名が被告に、第一審判決では29名が有罪になった。正造先生はこの事件をきっかけとしてか翌年衆議院議員を辞任、明治天皇に鉱毒被害を直訴したのだった(直訴はまたも警官隊に取り押さえられ失敗。さらに先生は『狂人』扱いされ、皮肉にも?無罪に。ただし、鉱毒問題を世間に大きく知らしめることにはなった。川俣事件は第二審で大部分の被告が無罪に、またその後の公訴不受理・控訴棄却により消滅した。これらの事件をきっかけとしてか内閣に鉱毒調査委員会が設置されたが、鉱毒の処理方法は谷中村の遊水池計画へと向かってしまった)。

122号を一旦北上して354号に戻り、東へ向かう。途中、板倉町(群馬県)で昼食を挟んでしばらく行くと北川辺町である。前もって前回とは別の地図でアタリをつけておいたのが功を奏し、小学校の裏側、細い路地を入ったところに「田中霊場」はあった。

Tanaka_reijo0011_2 Tanaka_reijo0021_2 Tanaka_reijo0031_2 Tanaka_reijo0041_2 今日で、先生の全ての分骨地と鉱毒事件の主な関連史跡を回ったことになる。これで正造先生への旅は一旦終了である。正直なところ、ここまで回数を重ねるとは思ってもみなかった。それは、当初は「もっと早く回れるかな」とか、「途中で飽きてしまうかも」といった思いもあったからである。しかし、始めてみると毎回吸い寄せられるように東へと車を走らせていた。

もちろん、これはあくまでも第一巡目の終わりであって、この先、俺が正造先生やこの事件とどう付き合っていくのかの方が課題なのだろう。

I'M NO STRANGER TO THIS PLACE
WHERE REAL LIFE AND DREAMS COLLIDE
AND EVEN THOUGH I FALL FROM GRACE
I WILL KEEP THE DREAM ALIVE
I WILL KEEP THE DREAM ALIVE

(OASIS "KEEP THE DREAM ALIVE" より。正造先生にこの一節を送りたい)

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2007.08.19

田中正造先生への旅(4)

夏休み最終日。カーテンの隙間から漏れる陽射しで起床、それほど寝坊でもなく。正造先生への旅の第4弾へと出発した。

まずは国道50号を東へ。足利市街を左に見ながら、通り過ぎてしばらく行った辺りで左折。県道を市街へ少しバックしたところにある「寿徳寺」へ。正造先生の分骨地としては一番最近に発見されたところである。

Jutokuji1前々回の時は駐車場がない、と飛ばしたのだが、今日は近くの脇道にハザード点けて車を止め、駆け足で見てきた(実際は寺の敷地内まで入ると駐車スペースはあったのだが。県道からは見えなかった)。

また50号に戻って佐野市内へ。次は「惣宗寺」。実はこの寺=佐野厄除け大師であることを、前回の旅終了後に知った。世間的には、やはり厄除け大師の名前の方がよく知られているであろう。

Soushuji0031 Soushuji0011 Soushuji0021 この寺は先生が終生、活動の拠点にしていたところである。石川啄木が学生時代に、先生の直訴事件に触れて詠んだ歌の碑もあった。厄除け大師に訪れる人は、暑さがぶり返した今日も多かったが、大師にお参りせずに正造先生のお墓参りだけをするのは俺くらいだった。

佐野市内で昼食後(やたらと行列の出来ているラーメン屋があってちょっと並んでみたかったけど、またの機会に)、前回訪れた渡良瀬遊水池へ向けて車を走らせると、遊水池の少し手前で「田中霊祠」が現れる。

Tanaka_reishi0011 Tanaka_reishi0021 Tanaka_reishi0041 Tanaka_reishi0031ここは選挙の時に、候補者がよくお参りに来るらしい。県会議員~国会議員と当選を続けた正造先生にあやかろう、ということらしい。あやかるポイントが違うと思うのだが・・・。欅(?)の大木に囲まれ、蝉しぐれに包まれる。逆に不思議な静寂と落ち着きを感じた。目の前を2匹の蝉が飛び交っていった。足元の土には、彼らが出てきた穴がいくつも開いていた。左上の写真に写っているのは、我が愛車である。

その後、遊水池を左手に見ながら埼玉県に入り、北川辺町へ。正造先生の分骨地は残すところあと一つ、この町にある「田中霊場」だけである。ところが、館林の記念館でもらったパンフに載っていた地図はアバウト過ぎて、かなりグルグル回ったが最後まで見当たらなかった。ちょっと悔しかったが、明和町(群馬県)にある「川俣事件」の碑にも行っていないことに気付き、この2箇所を次回に残すことにして、前橋へ帰ってきた。まだ次があるというのは、やっぱり楽しみなことだ。

帰る途中、太田の某書店で、ようやく城山三郎氏の「落日燃ゆ」を入手。こちらも読むのが楽しみである。

Nowhere1(田中霊場を探すのを断念して、1枚。次回はもう少し下調べして行こう)

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2007.08.05

田中正造先生への旅(3)

(このシリーズ、前回、前々回含めてタイトルを変えました)

正造先生への旅、3回目。今日は渡良瀬遊水池へ。栃木・群馬・茨城・埼玉の4県がぶつかり合う辺りに位置するこの遊水池は、渡良瀬川の度重なる洪水によって鉱毒被害が広がるのを(原因元の足尾銅山に手を下すことなく)防ぐために造られたものだ。そして、この遊水池を造るにあたり、一つの村が潰されることになった。谷中村である。明治35年から進められた計画だそうだ。正造先生は、有名な明治天皇への直訴事件の後谷中村に入り、最後まで住民と共に、遊水池計画と闘い続けた。そして、結果として廃村後も、残留民と村の復活を唱えたのだった。

Yusuichi0011 Yusuichi0021 Yusuichi0031 Yusuichi0041 遊水池。とにかくデカイ。別名、谷中湖と呼ばれるのも納得。ほとりまでは車で入れる。その先は徒歩。遊水池には真ん中の「中の島」を挟んで大きな橋が架かっている。中の島から北へ行くと、谷中村の遺跡に辿りつく。

Yanakamura0011 Yanakamura0021 Yanakamura0031 Yanakamura0041 遺跡といっても、看板が立っているだけの、ちと寂しいものだが。しかし、地図にあるように(小さくて分かり辛いが)、当時の住民の一軒一軒の名前がちゃんと記されている。人間は統計上の「数字」ではない。「一人一人」なのだ。そして、今も昔も「萱(かや)」が生い茂っている。

またしばらく行くと、雷電神社と延命院の跡に辿りつく。雷電神社には当時、住民や正造先生が会合を持つべく、頻繁に集まったのだという。

Raidenjinja0011 Raidenjinja0021 神社へ向かう道。今日は酷暑。滝のように汗をかきながら歩く。正造先生が倒れた夏も、こんな暑さだったのだろうか。いや、今の方が温暖化現象で・・・?。神社跡には小さな鐘があって、自由に撞けるようになっていた。鳴らす時にケイタイでムービーを撮ったのだが、帰宅後PCに転送したら再生出来なくなってしまった。残念。往復で4km強か。軽い熱射病と左踵に靴擦れ。情けない。

Ireihi0011 Ireihi0021 Shozo_zo0011 遊水池の近くには慰霊碑が。少し上流には渡良瀬の流れを見つめるように、正造先生の銅像が立っている。今日はここまで。正造先生への旅は、まだまだ続く。

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2007.06.24

田中正造先生への旅(2)

先週に引き続き、田中正造先生を巡る旅の第2弾。今日はまず、太田市毛里田地区にある「祈念鉱毒根絶碑」へ。「祈」念なのがミソだ。実は先週の帰りに寄るつもりが、場所が見当たらず、今日の再挑戦となったのだった。国道50号から足利へ入る辺りだとは察しがついていたのだが、細い脇道をグルグルしているうちに、ようやく発見。

Kinenhi0011 Kinenhi0031 Kinenhi0021 毛里田地区は鉱毒の被害が最も酷かった地区の一つ。実際、今でも汚染された田畑の土地改良が行われているのだという。今でも!

その後、足利の市内、蕎麦の名店「立花」さんで昼食、街外れから県道8号を館林方面に走ると、再び50号に合流する手前で「寿徳寺」が現れる。ここも正造先生の分骨地の一つ。しかも近年になって発見されたという。ところが駐車場がなく、近場にパーキングできるスペースもなく、止むを得ず次回へ。

そのまま50号に入って佐野市内へ。県道を北上して、今度は先生の生家(田中正造旧宅)へ。写真は生家の向かいにある墓石。当然ながらここにも分骨されているのだ。

Shozo_seika0011 Shozo_seika0021 Shozo_seika0031しかし、この邸宅、保存修理工事と県道拡張工事がぶつかり、場所を移動しての現在、になってしまったのだそう。宅内には、あがって見学することができた。

最後は市街地へ戻り、「佐野市郷土博物館」へ。ここには先生の遺品がある。「鉱毒問題の解決に全財産を投げ打ち、死んだ時は無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋一つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけだった」という記述を初めて教科書で読んだ時は子供心にも衝撃が走ったが、その実物とついに対面することができた。

例えばジョンのミュージアムで、「あの」エピフォン・カジノを見た時もそうだったが、それは「単なる物」ではなかった。陳腐な言い方しか思いつかないが、魂が宿っていた。それを証明するかのように、3個の小石のうち最も美しい青色の小石が、いつまでも鈍い光を放っていた。

今日はここまで。まだ回らなければならない場所は残っている。しばらく正造先生への旅は続く。

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2007.06.17

田中正造先生への旅

昨年に開館したことを知ってからずっと行きたいと思っていた「足尾鉱毒事件田中正造記念館」。今日、愛車のエアコンのチェックがてら、行ってくることが出来た。館林の街外れにあるのだが、平日は隔日営業、しかも午後4時で閉館とあって、営業のついでには寄れずにいたのだった。

ホントに小さな会場ながら、親切丁寧なガイドさんにもお世話になり、自分も知らなかった事実をいろいろと知ることができた。俺は小学校高学年の時だったか、国語の教科書に載っていた伝記で初めて知り、社会科の自由研究で鉱毒事件と正造先生の生涯について調べたのが最初だった。以来20数年、現地の近くに住むようになって、何か不思議な縁を感じている。これは秩父事件についても同様である。

Shozo_karuta11000円カンパを差し上げたら、「田中正造かるた」を頂戴した。「上毛かるた」の向こうを張って、か。これからじっくりめくってみよう。近所の方々は雨宿りや電車の待ち時間にも訪れているらしい。俺も「是非、仕事の休憩にでもお立ち寄りください」とお声がけいただいた。また近いうちに訪れたい。

その後、何度目かの雲龍寺参り。記念館のすぐ近くである。正造先生の分骨がある。アジサイが、いいアクセントになっていた。全部で6ヶ所に分骨されていることも今回初めて知った。

Unryuji0011 Unryuji0021 Unryuji0031 Unryuji0041 Unryuji0051 Unryuji0071

Unryuji0061Unryuji0081次回は残る5ヶ所を回ってみよう。天気も良く、愛車のエアコンも快調だった。久しぶりに、いいドライブが出来た。

そうだ、今度は親父を連れて行こう。

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